ヒューマンドラマ[文芸]

あの山小屋

 ――おれは……行きたい……いや、帰りたいんだ。なぜかわからないが、あの場所に……。

 山を登る一人の男。その顔には焦燥にも似た険しさが浮かび、瞳にはぎらつく光が宿っている。まばたきの回数は極端に少なく、まるで何かに取り憑かれているようだった。
 足取りに迷いはなく、ただ一直線に進む。しかし、彼が目指しているのは山頂ではない。ただ一つの、ある場所だった。
 彼はひたすらに歩き続けた。空はじわじわと暮色に染まり、山の稜線が沈み始めた。空気は刺すように冷え込んでいき、息を吐けば白く曇り、耳の奥まで冷気が刺さった。
 だが、彼は一度も振り返らなかった。荒れる風にも足を取られず、ただ前へと進んだ。
 やがて、夜が完全に山を呑み込んだ頃、頬にぽつりと冷たい雫が落ちた。とうとう雨が降り出したのだ。
 彼は無言でザックを下ろし、ヘッドライトを取り出してスイッチを入れた。光は頼りなく、闇をほんのわずか押し返すだけだった。
 いつしか、自分が登っているのか下っているのかさえ曖昧になり、平衡感覚が狂っていく。
 だが彼はふっと、笑った。

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短編 2025/10/27 11:00更新
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最終取得日時:2025/10/28 12:05
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