ヒューマンドラマ[文芸]

裕福な悪童に両手を潰された俺を、医師の母は診断書で加害者を守った

俺の両手を砕いたのは、神崎翔真だった。
彼は東京の私立・聖陵音楽大学で有名な問題児であり、神崎建設会社社長の一人息子でもある。
あの夜、彼は五人の取り巻きを連れて、学校裏の路地で俺を待ち伏せしていた。
奴らは俺の肩を押さえつけ、俺の両手を冷たいコンクリートの上に押しつけた。
そして神崎翔真は鉄パイプを振り上げた。
一度。
また一度。
俺の、ピアノを弾くための手を砕くために。
救急外来に運び込まれた時、俺の両手はもう原形を失っていた。
医師は言った。
今後、箸をまともに持てるようになれば、それだけでも奇跡だと。
けれど、俺の母――高梨怜子は、東京白桜大学附属病院の副院長だった。
その母は翌日の夕方、俺に「重篤な後遺症は認められない」という診断書を出した。
それだけではない。
母は一枚の《示談書》を、俺の顔の前に放り投げた。
「署名しなさい」
全身から冷や汗が噴き出していた。
痛みで、顔を上げることさえできなかった。
「……どうして?」
母は病床の横に立っていた。
濃いグレーのスーツ。
整えられた化粧。
その声は、どうでもいい事務連絡でも告げるように静かだった。
「神崎さんは、昔、私の命を救ってくれた人なの。あの人がいなければ、今の私はいない」
「だから?」
「だから今回は、高梨家がその恩を返す番なのよ」
母は少しだけ言葉を切り、続けた。
「翔真くんはまだ若いの。人生はこれからよ。前科がつけば、彼の一生は壊れてしまう」
俺は、包帯でぐるぐるに巻かれ、完全に歪んだ自分の手を見た。
十七年間、ピアノを弾いてきた。
ウィーン国立音楽大学の合格通知は、家の机の一番下の引き出しに入っている。
ようやく東京を離れ、夢を追いかけられると思っていた。
けれど、俺の手は壊れた。
俺の夢も壊れた。
それなのに、実の母は俺にこう言った。
「奏太。あなたはもう、ピアノを弾ける人間じゃない。だったらせめて、翔真くんの人生まで壊さないで」
その瞬間、痛みが消えた。
心が死ぬと、身体の痛みなど、どうでもよくなるらしい。
俺の人生を使って、あんたがその恩とやらを返すと言うのなら。
見せてやる。
その恩が、どれほど汚れたものなのかを。

BK小説大賞2 / シリアス / ダーク / 男主人公 / 和風 / 現代 / 職業もの / 日常 / ざまぁ / 毒親 / 復讐 / 因果応報 / ビターエンド
短編 2026/06/11 16:23更新
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最終取得日時:2026/06/24 12:06
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