弁護士の夫は幼なじみの母親の10円のために奔走したのに、私の母が命を奪われた事件は「受ける価値がない」と切り捨てた
母の命日、私は企業法務セミナー後の懇親会に出席していた。
グラスを手にした男が近づいてきて、どこか面白がるように尋ねた。
「高瀬先生、今でも黒川先生のことを恨んでるんですか? お母様の事故の時、依頼を断られたでしょう」
私はシャンパンを一口飲んだ。
「もう昔のことです。黒川先生は大企業の法務とクロスボーダーM&Aしか扱わない。それが彼の方針ですから」
男は小さくため息をついた。
「でも、今は相当後悔してるみたいですよ。あなたが戻ってくれるなら、家も貯金も全部渡していいって」
私はバッグからアイボリーの招待状を取り出した。
「それは残念ですね」
「来月、私、結婚するんです。黒川先生もお時間があればぜひ」
言い終わった瞬間、横から伸びた手が招待状を奪った。
紙が真っ二つに破かれる。
黒川恭介が、血走った目で私を見ていた。
私は一度だけ彼を見て、すぐに視線を外した。
もう、何も感じなかった。
何年も前、母は横断歩道を渡っている最中、酒を飲んだまま運転していた大企業創業家の息子にはねられた。事故のあと、相手は同乗していた知人を運転手に仕立てようとした。
病院へ駆けつけた時、母はもう息をしていなかった。私は残された資料をかき集め、最後の望みをかけて恭介のもとへ行った。
彼は書類を数枚めくっただけだった。
「交通事故は専門外だ」
「俺は企業法務をやってる。扱う案件にも方針がある。別の弁護士を探してくれ」
母の葬儀も、その後の手続きも、私は一人で片づけた。
それでもずっと、自分に言い聞かせていた。恭介はただ、自分のルールを守っただけなのだと。
ところが二年後。
彼は白石夏希の母親のために、商店街の店を一軒ずつ回り、防犯カメラ映像の保存と提供を頼んでいた。
夏希の母親は、店で十円の値引きをめぐって口論になり、相手に押されて転倒し、手首を痛めただけだった。それでも恭介は警察署まで付き添い、診断書や損害賠償の資料まで自分で整えた。
その時、初めて分かった。
彼のルールは、破れないものではなかった。
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