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渚月(なづき) 2026/03/19 公開 2026/03/19 12:03 更新
包丁を置いた。
五年間握り続けた、私の右手だけが覚えている重さ。
宮廷料理局の厨房を出るとき、振り返らなかった。
振り返れば、きっと足が止まる。
罪状は「王太子の食事に毒を盛った」。
身に覚えはない。
けれど、公爵令嬢の涙と、料理局長の証言と、王太子の沈黙が、私の言葉より重かった。
(……毒なんて、盛っていない。)
私が作ったのは、王太子が「生まれて初めて美味しい」と言ってくれた、あのスープだ。
あの日から、局長の目が変わったことを覚えている。
追放先は、国境の向こう。
人間の領域を越えた、魔族の土地。
荷物は着替えと、母の形見の包丁が一本。
それだけで充分だった。
料理人に必要なものは、腕と舌と、目の前の素材だけ。
国境の橋を渡り終えたとき、風の匂いが変わった。
火山灰と、夜の花と、見知らぬ香辛料の香り。
行く宛てはない。
けれど、腹は減る。
自分のためでもいい。何か作ろう。
道端で摘んだ薬草と、干し肉の端切れ。
小さな焚き火で、簡素なスープを煮た。
湯気が立ちのぼる。
それを——じっと見ている、赤い瞳があった。
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