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水平衡(すいへいこう) 2026/10/21 公開 2026/10/21 16:29 更新
一八〇〇年五月、ナポレオンはアルプス越えを決意する。暴風雪の峠で馬が次々と倒れ、彼は馬より頼れるものを探して、一頭の灰毛の雄ロバに跨がる。
登り半ば、暴風雪が襲う。凍死する者が出る中、繋がれていないロバが自分からそばに伏せ、厚い毛皮で風を遮り、熱い息を手に吹きかける。ナポレオンはロバの首を抱いて生き延び、夜明けに約束する。「山を越えたら自由だ。野馬のように行け。人参と草をいくらでも用意する。お前は永遠に私の友だ」。
三日後、峠を越え、イタリアが眼下に広がる。だがナポレオンの目つきが変わる。風刺画、敵国の嘲笑、白馬に跨がるべき自分の姿――ロバに温められたなど汚点になってはならない。
「あのロバを殺せ。肉を兵に分けろ」
ロバは褒美をもらえると思ったのか、嬉しそうに引く人の手にすり寄った。刃が落ち、一声鳴く間もなかった。
肉は兵に配られ、ナポレオンにも届く。彼は一口嚼み、あの夜の体温と約束を思い出す。涙が肉汁に混ざる。食べながら泣き、なぜ泣くのか自分でも分からない。
後に彼は皇帝となる。肖像画にロバは一枚もない。史書にも存在しない。
晩年、最も寒かった夜を問われ、彼は答える。「アルプスだ」。寒かったかと訊かれ、声を限りなく小さくして言う。「寒くなかった。その夜、誰かが私の代わりに風を防いでくれた」。
ロバは死ぬまで約束を信じていた。約束した本人も、あの一口の肉から逃れられなかった。誰も書かない野史だけが、二人の物語を覚えている。
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