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まるまる 2026/03/04 公開 2026/03/04 12:03 更新
十年間、一度も泣いたことがない。 それが辺境伯夫人カトレアの、たった一つの矜持だった。
初夜に夫から告げられたのは、愛の言葉ではなかった。 お飾りの妻でいろ。 その一言を飲み込んだ日から、彼女は感情を殺した。
誰も教えてくれない帳簿を独学で読み解き、崩壊寸前の兵站を一人で立て直した。 食事は執務机の上で冷めたスープを啜り、寝床は北向きの狭い資料室。 夫が想い人に貢いだ金の出処を、彼女自身が毎月承認印を押して送り出していた。
それでも構わないと思っていた。 愛されない代わりに、領民の命を繋ぐ歯車であり続けることが、自分の存在意義だと信じていたから。
十年目のある夜、夫が突然言った。 これからは君を愛そうと思う。 想い人に捨てられた男の、手のひらを返した甘言だった。
カトレアは微笑んだ。 完璧な、何の感情もない微笑みで。 そして引き出しの奥に手を伸ばした。
そこには十年かけて積み上げた、ある書類の束が眠っている。 彼女はそれを、誰にも気づかれずに準備していた。
王都には、長年にわたり薬用の茶葉を届け続けてくれた一人の医師がいる。 彼が選ぶ缶の色が、なぜかいつも彼女の瞳と同じ色をしていることに、カトレアはまだ気づいていない。
氷の館を出た女が手にしているものは、復讐か、解放か。 その答えは、彼女自身にもわからない。
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