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熾星 2026/06/11 公開 2026/06/11 16:23 更新
俺の両手を砕いたのは、神崎翔真だった。
彼は東京の私立・聖陵音楽大学で有名な問題児であり、神崎建設会社社長の一人息子でもある。
あの夜、彼は五人の取り巻きを連れて、学校裏の路地で俺を待ち伏せしていた。
奴らは俺の肩を押さえつけ、俺の両手を冷たいコンクリートの上に押しつけた。
そして神崎翔真は鉄パイプを振り上げた。
一度。
また一度。
俺の、ピアノを弾くための手を砕くために。
救急外来に運び込まれた時、俺の両手はもう原形を失っていた。
医師は言った。
今後、箸をまともに持てるようになれば、それだけでも奇跡だと。
けれど、俺の母――高梨怜子は、東京白桜大学附属病院の副院長だった。
その母は翌日の夕方、俺に「重篤な後遺症は認められない」という診断書を出した。
それだけではない。
母は一枚の《示談書》を、俺の顔の前に放り投げた。
「署名しなさい」
全身から冷や汗が噴き出していた。
痛みで、顔を上げることさえできなかった。
「……どうして?」
母は病床の横に立っていた。
濃いグレーのスーツ。
整えられた化粧。
その声は、どうでもいい事務連絡でも告げるように静かだった。
「神崎さんは、昔、私の命を救ってくれた人なの。あの人がいなければ、今の私はいない」
「だから?」
「だから今回は、高梨家がその恩を返す番なのよ」
母は少しだけ言葉を切り、続けた。
「翔真くんはまだ若いの。人生はこれからよ。前科がつけば、彼の一生は壊れてしまう」
俺は、包帯でぐるぐるに巻かれ、完全に歪んだ自分の手を見た。
十七年間、ピアノを弾いてきた。
ウィーン国立音楽大学の合格通知は、家の机の一番下の引き出しに入っている。
ようやく東京を離れ、夢を追いかけられると思っていた。
けれど、俺の手は壊れた。
俺の夢も壊れた。
それなのに、実の母は俺にこう言った。
「奏太。あなたはもう、ピアノを弾ける人間じゃない。だったらせめて、翔真くんの人生まで壊さないで」
その瞬間、痛みが消えた。
心が死ぬと、身体の痛みなど、どうでもよくなるらしい。
俺の人生を使って、あんたがその恩とやらを返すと言うのなら。
見せてやる。
その恩が、どれほど汚れたものなのかを。
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